久しぶりにアジアン料理を作りました。
タイに定期的に行っているお友達にお土産でこれをもらったからです↓
(左上の女性の肖像にはもうツッコミは入れないでおきます。笑)
皆さんの幼少の頃の思い出の味ってなんでしょうか?
精米したての炊いたキラキラ輝く白飯…おばあちゃんが作ってくれた筑前煮…も上位に入りますが。
私の幼少の思い出の味は辛っいバリ料理かもしれません。
5歳の頃、1年ほどバリ島に住み、小学校にも通っていました。
あの頃は日本語よりインドネシア語を流暢に話していたと今でも叔父に言われます。
小さな乗り合い三輪タクシー“ベモ”に乗って小学校に通い、体育の時間はバリダンスを習っていました。
目を左右に動かしながら手を有り得ない形に反り、腰の姿勢を保つなど「いっぺんに全部やるの無理ー!!」と難しくて嘆いていた記憶があります。
まだ観光地化する前のバリ。15年ほど前に大人になってから一度だけ訪れたバリはすっかり記憶とは違うリゾート地になっていました。
当時、木彫り師たちの村に母は小さなバンガローを建てました。
生贄のヒヨコを大きな穴を掘り土で埋めて、その上に建てた家にはちゃんとシャワーがついていました。
当時は身体を洗うのはみんな川にマンディに行っていたのでシャワー付きは珍しかったはず。
5歳の私は「友達とマンディしてくるー!」とよく川でシャワー(笑)してました。
上流は男性用。下流が女性用。
トイレも洗濯もそこでやってるので下流は損💦
よく停電するので真っ暗闇のあれ以上闇があろうかという夜の田舎の細道を度々、母にお使いを頼まれて、一人走って屋台のなんでも屋さんへロウソクを買いに行きました。
雑多な朝市には貧相な怪我をした野良犬や豚の丸焼き(バビグリン)がそのサイズと釣り合っていない小さすぎる屋台、その合間をぬう頭に市場で買ったものを乗せた主婦達。そんな中、地面に置いてある籠によく子犬が売られていて、「どうしても欲しい!」と何度もしつこく母に懇願し、買ってもらったことがあります。
雑種の茶色いワンちゃんは翌朝ベッドの中、私の横で冷たくなっていました。
たぶん元々弱っていたのかもしれない。
木彫り師の村に住んでいたので、私の遊び場は村人たちの家。勝手に入り込み、よく工芸品のお土産物屋で売っているネコやフクロウの置物を「おじさん手伝っていい?」と一緒にヤスリをかけたりしてました。
現代の子供達がスマートフォンやゲームに慣れ親しんでいるのと比べると時代と文化が違うなぁと思ってしまいます。
一度、まぁまぁいいレストランに母が連れて行ってくれ
「ここなら、なんでも好きなものあるよ!何食べたい?」
と言われ、バリ特有の竹でできた椅子に座りながら
「きな粉餅✨」
と即答し、母に却下されました。
なんでもって言ったのに。ヒドイ(T ^ T)
上半身何も身につけていない褐色の垂れきった胸、民族の長い布を腰にスカートのように巻いて、赤い噛みタバコを口に含んで口が真っ赤なおばあさん。そんなおばあさんの真横を駆け抜けて屋台にご飯を買いに行っていました。
バナナの葉っぱがお弁当の箱代わり。素早く上手にくるっと巻いて、下にご飯を詰め、上には様々な辛いおかずがギッシリ。最後にちょこっとカッチャン(豆=ピーナッツ)を添えて包んでくれるお持ち帰りのご飯。
大人になった今では辛いものが苦手なのに、あの頃は大好きで、辛い辛いソースとご飯とピーナッツを手をスプーン代わりに口に運んで頬張っていました。
棚田がどこまでも続く谷間、割れたように分かれた石の門から空に向かって伸びる階段と赤い花々、美しい景色のすぐ隣に死や泥や腐ったぐちゃぐちゃのものがある世界。
人が生きているエネルギーに溢れている世界。
久しぶりに嗅ぎました、あの間違いないアジアの香辛料の香り。
遠いフィレンツェのキッチンで、あまりの懐かしさに自分でもびっくりしました…
ブログランキングに参加しています。
ポチッと押していただけたら
ランキングアップにつながります♪
にほんブログ村